2015年11月17日火曜日

「山田経営維新塾メールマガジン」Vol68,2015,11,17号

「お客様」「社員さん」「利潤」に順番はつけられない

私が以前、
「顧客第一と利潤第一は両立すると思いますよ。
それどころか、
お客様第一であり、利潤第一であり、社員さん第一が私の立場です」

と書いたことに対して、複数の読者の方から、
「第一が複数あると、どうしても従業員が混乱する。
経営者は従業員が迷わないように、
何が第一か明確にする責任があるのではないか」
との指摘がありました。
確かに、社長さんは、いたずらに社員さんを迷わせてはなりません。

スピードの問題もあります。
すべてのケースで判断を社員さんに委ねていては電光石火の対応は難しい。
あらかじめ定めておかなければいけないケースも多いでしょう。
決して「マニュアル」を否定してわけではありません。
(むしろ、社員さんを一定のレベルにまで鍛え上げるためにはマニュアルが不可欠です)

ただし、
「お客様」「社員さん」「利潤」に
順番をつけることが、はたして可能でしょうか。
あえてつければ、
「お客様第一」「社員さん第二」「利潤第三」となるでしょうが、
これでは「本音」と「建前」の関係になってしまいませんか。

本音では「利益」を追求しているのに、
建前としては「顧客満足」を掲げている、
よくあるパターンですね。
かえって社員さんを迷わせることになります。

かといって、本音を前面に出して、
「利潤第一」「社員さん第二」「お客様第三」とするわけにはいかない。
お客様や社員さん、ステークホルダー、地域社会などの反発を買うことは目に見えてます。


優先順位を示さなければダメ?

あるいは、こんな質問もありました。
「クロネコヤマトの宅急便の創業者・小倉昌男さんは
「なんでも第一にしてはならない」といっている。
あなたは「第一が複数あってもいい」と。

どちらが正しいのか。

確かに、小倉さんの著書を見ると、次のような記述がありました。
小倉さんが静岡運輸という会社の総務部長を務めていたころの話です。
その会社は、ともかく交通事故が多く、
労働基準監督署から、にらまれていました。
ある日、監督署へ行ったら、安全対策に優れた木工業の会社があるから、
勉強に行け、と指示されます。

その会社を訪問すると、作業所に「安全第一、能率第二」という張り紙がある。
経営者に話を聞くと、この工場では以前は労災事故が多かった。
人命の尊さを考えれば何としても事故を減らさなければならない。
能率を上げろと発破をかけるだけではいけない。
そう考えて、敢えて能率を第二にしたのだという。
なるほど、と感心した。
どこの会社でも安全第一とは書いてあるが、能率第二とは書いていない。
第二を示すことで、本当に安全が第一であることがわかる。

静岡運輸では東京行きのトラックは三日目の朝に帰ってくる。
三日目は休みだが、仕事が忙しいと非番返上で運転されていた。
これが事故の原因になっている。
そこで非番返上を禁止するために、「安全第一、営業第二」と書いたポスターを作った。
その結果、事故は減り、しかも営業成績は落ちなかったのである。
何でも第一にする会社がよくあるが、それではいけない。
何が第一なのか、はっきりと優先順位を示す経営者にならなければだめだと痛感した
〈経営はロマンだ!〉日本経済新聞社

なるほど、「能率第二」「営業第二」と示すことで、
かえって「安全第一」を浮かび上がらせたわけです。
「第一が複数あっても構わない」とする考え方とは相いれないようですが、
実践的な解決法を導き出すところなど、
私が訴えている「弁証法経営」の好例といっても過言ではありません。

正 労災事故が多い
反 「安全第一」のスローガンが徹底していない
合 「安全第一、営業第二」と書いたポスターを掲示することで、労災事故が減ったというわけです。

きちんと「正―反―合」の問題解決手順に沿っていますね。

急所は「どのようにしたら労災事故を減らせるか」と知恵を絞る事。
あれこれ悩まなければなりません。悩むからこそ、解決の知恵が出てくるのです。
それに、「安全第一、営業第二」と書かれたポスターを掲示はしましたが、
実際には「安全第一」を両立させていることに注目してください。
根幹は「安全第一」「営業第一」ですが、
「安全第一、営業第二」のポスターを掲げることで労災が減るのなら、
立派に弁証法的な問題解決になっています。

もちろん、私なら「安全第一」「営業第一」の両方を掲げて、
課題・問題点の解決に取り組んだでしょう。

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2015年9月30日水曜日

「山田経営維新塾メールマガジン」Vol67,2015,10,1号


戦国武将に学ぶ勝つ経営 パート2

「洋上の要塞を作り上げた」

ここで信長の非凡さが発揮されました。

「機動力を誇る毛利水軍に対して、
こちらも機動力で対抗しようとしても、かなうはずがない。
安宅船は可視化に欠点も大きいが、
火攻めに対する防御を固めれば、十分に対抗できる」


九鬼水軍の頭(かしら)、九鬼嘉隆を呼ぶと、安宅船の改良を命じ、

1、毛利水軍の火器による攻撃を防ぐために楯板を鉄板に変更すること
2、楯板は甲板の上ではなく、弦の外側につけることの2点を具体的に指示しました。

鉄板船の建造は簡単なことではありません。
楯板を鉄板に変えると、それだけ重くなり喫水が下がるからです。

下手をすると、せっかく建造したのに浮かばない船になりかねません。
鉄が厚くなるほど喫水が下がりますから、
浮力を得ようとしたら、船を大きくせざるを得ません。

嘉隆は巨大な船を作ることで、この難題を乗り越えようとしました。
伊勢湾でひそかに6艇の安宅船を建造。
1578年1月、木津川沖の毛利軍の前に
驚異の新兵器・巨大鉄板船が姿を現しました。

1月6日、木津川沖で、信長軍と毛利軍の再度の決戦が行われました。
第2次木津川の戦いです。

600艇の大軍を擁した毛利水軍は、
ふたたび織田水軍を血祭りにあげようと、
意気揚々と近づいてきます。
ただし、対する織田水軍は2年前と同じではありませんでした。

信長水軍の中央に巨大な鉄船6艇が浮かび、
その周りを200艇の船が囲んでいたのです。
鉄船は周りを鉄の板で囲い、
縦50メートル、横20メートルの大きさ。
洋上の要塞と言っても過言ではありません。


「敗北のときこそ、勝利の因をつくれ」

それでも、先手を取ったのは毛利水軍でした。
600艇が、いっせいに信長水軍に躍りかかりました。
毛利水軍の機動力は抜群。
操船技術も織田水軍より、はるかにまさっています。

毛利水軍の攻撃の仕方は特徴があり、
5艇の船がクサビ形にになって、
敵の船団に突っ込んでいきます。
敵は、まさにクサビを打ち込まれたように、
船と船の間隔があき、その部分から崩れていきました。

この日の信長軍は、さしたる反撃もせずに逃げ惑うばかり。
毛利水軍の船は逃げる敵を追いかけ、気が付くと、
いつの間にか鉄板船の近くまできていました。

そのとき、鉄板船の大砲(大筒)がいっせいに火を吹きました。
大砲は前と左右に設置されていますから、
1艇に3門、合計18門の大砲が炸裂したのです。
毛利水軍の船は、しょせん木造船ですから、大砲にはかないません。

得意の火攻めも鉄板船相手では効果がない。
乗り込もうにも、足がかりもありませんした。
毛利水軍の船は次々と海のもくずとなって消えていきました。
戦いに擁した時間はわずか「4時間」。
信長の新兵器・鉄板船が無敵を誇った毛利水軍を、たたきのめしたのです。

敗北のときにこそ次の戦いの勝因を作ることができ、
勝利のときにこそ次の戦いの敗因が隠れています。

2回にわたる木津川の戦い。
最初の戦いで完敗した信長は毛利水軍打倒の秘策を考え、
第2次の戦いで実行に移しました。

作家の池宮彰一郎氏は次のように述べています。
「玄人は、先例を重んじ、先人の例に従って、戦を規定する。
戦はこうするものだ、歴史は繰り返す、と、
だが、歴史には同一局面は有り得ない。
人も物も次々刻々に進歩し、変化する。
時代は変わるのである。
戦も、公共事業も、金融も、商取引も。
「玄人」(くろうと)はそれを知らない。
いや認めようとしない。
変化が怖いのである。
確かに信長は、海戦では素人であった。
ただし、偉大な素人であった」
(「本能寺 下」毎日新聞)

変化を恐れない、「素人」信長。
大阪湾に浮かび上がった洋上の城・鉄板船は
合理的思考の真骨頂を示していました。

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2015年9月3日木曜日

「山田経営維新塾メールマガジン」Vol66,2015,9,4号

戦国武将に学ぶ勝つ経営

毛利水軍の火攻めに、あえなく完敗

前回の続きになりますが
もうひとつ、信長の合理的な思考を伺わせる戦いがあります。
こちらは木津川沖の大阪湾上で行われた海戦、
信長水軍と毛利水軍が激突した2つの戦いを比べてみると、
信長の非凡さが自然に浮かび上がります。

1576年、将軍・足利義昭の要請で毛利氏は信長との対決を決意します。
とりあえず、信長と対立している石山本願寺と同盟を結び、
海上から本願寺に兵糧を運び入れることにしました。
信長軍の兵糧攻めを無効にする作戦です。

石山本願寺は大阪湾に面しており、
後に、同じ場所に豊臣秀吉によって大阪城がつくられます。

本願寺と毛利氏が同盟を結んだことを、
諜報活動を通じて信長は即座に知ります。
大阪湾からの援助ルートが確立したら、
本願寺を落とすのが、一層難しくなります。

戦国時代最強とうたわれた水軍をもっていたのは中国の毛利氏。
精鋭・小早川水軍、勇敢・村上水軍などを傘下に入れたことで、
洋上では向かうところ敵なしの状態でした。

同年7月、大阪湾・木津川河口付近で
本願寺向けの兵糧を積んできた毛利の輸送船団に信長水軍が襲いかかりました。
毛利軍の護衛戦も即座に反撃します。
第1次木津川の戦いです。

この時の毛利水軍は輸送船300艇と護衛戦300艇。
輸送船には戦闘能力はないとされていますから、
実質的には300艇の戦力でした。
対する織田は安宅船5艇と、
その周りを300艇の船が囲んでいました。
「300艇」対「5艇+300艇」。
兵力の上では織田軍の方が優勢でした。

安宅船は軍船の中心で、幅は10メートル以上、
長さは50メートル以上あります。
漕ぎ手だけでも50人~200人が乗り込み、
スピードはでないものの、巨体の割には小回りが利き、
高い戦闘能力を持っています。

数十人から数百人の兵士も乗船することができました。
安宅船は船足が遅いので、防備に力をいれています。
船上に分厚い楯板をはりめぐらせ、
弓や鉄砲の攻撃から乗組員を守っていました。

ただし、分厚いとはいえ、しょせん木でできています。
毛利水軍は火攻めが得意。さんざんに焙烙
(ほうろく=手榴弾のようなもの)
火矢をうちかけられ、織田軍の安宅船は次々に炎上していきました。

火の回りは早く、結局は5艇とも焼け落ちてしまい、
数百人を超える兵士、乗組員が犠牲になりました。
毛利水軍の中心である瀬戸内水軍、
村上水軍は倭寇以来の伝統を持ち、
水上での戦闘能力は高かった。

火器で攻撃した後、直接、兵士が相手の船に乗り込みます。
不安定な船の上での白兵戦は離れている方が圧倒的に有利。
名だたる毛利水軍にかなうものはいません。


第1次木津川の戦いで、信長軍は、
これ以上ないという敗北を喫しました。 

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2015年8月27日木曜日

「山田経営維新塾メールマガジン」Vol65,2015,8,12号

戦国武将に学ぶ 合理的経営のススメ

・目標達成のために最適な手段を選択

「合理的とは何か」と問われると答えは難しい。

「合理的」には
1、 目標の設定
2、 最適な手段の採用
3、 目標と手段の間の因果関係が明確
4、 論理的に明確
などの特徴があることがわかります。
感情ではなく、理性をフル回転させなければいけません。

合理的な思考を突き詰めていくと、
どうなるかといえば、
「対象を数量化して捉えようとする傾向が強まってくることです。
目的合理的な思考が緻密になればなるほど、
対象は数量化して捉えるようになり、
できるかぎり数字化して表現しようとするようになる。
その方が目標達成のための仕事をするのにあたって、
対象をいっそう正確に処理していくことができ、
またそれによって仕事の効率を著しく高めることができるからです」

対象を数量化することで、
正確な処理が可能になり、
仕事の効率が高められます。

単に、アカウンティング(お金の計算)や
管理会計の重要性を示唆しているだけではありません。
意思決定や製造・販売プロセスにおいても、
目標管理的な発想が大事であることを意味しています。

目標設定に関しても抽象的な目標を掲げるのではなく、
誰にでも理解できるように、数字に落とし込んで示す。
社長さんは数値化の作業を避けては通れません。


・宣教師から最先端情報を入手

あまり頼りにならない兵を持っているということは
戦法・戦術、武器などに工夫を凝らすしかありません。

最初に信長が思いついたのは槍の長さを変えることでした。
単純に考えれば、短い槍と長い槍が正面からぶつかれば、
長い槍の方が先に相手に届きます。

信長は約5,4~6メートルに及ぶ長槍を持たせることにしました。
戦法はそれに合わせて、大勢の兵を横に並ばせ、
槍先をそろえて、「槍ぶすま」のように敵に突進していくスタイルに変えました。

槍を上手に操る必要はありませんから、
槍に関しては素人同然の兵でも十分に使えます。
さっそく配下の柴田勝家に、清州の坂井大善を攻める際、
長槍を使用させたところ、相手の短い槍を、さんざんに打ち破り、
柴田軍が大勝しました。
信長のアイデアが見事に成功したわけです。

次に、信長が目を付けたのは
日本で出回り始めたばかりの新兵器・鉄砲でした
鉄砲であれば、敵と接近戦を行う必要がありません。

信長はポルトガルの宣教師らと積極的に付き合い、
ヨーロッパの歴史や最新事情に通じていましたから、
「先端技術の枠」ともいうべき鉄砲についてもよく知っています
(情報収集の重要さがわかります)

当時、日本最大の貿易港だった堺を支配すると、
積極的に鉄砲の導入に努めました。
もちろん、他の戦国大名たちも、こぞって導入しましたが、
鉄砲の威力をフルに発揮するためには、
それに応じた戦法を編み出す必要があります。

戦国大名の大半が合戦の最初に一斉射撃して
相手の出端をくじく程度に利用しなかったのに対し、
信長は鉄砲の強みを最大限に引き出すような戦い方を採用しました。


・独自の戦法で、最強軍団を殲滅

その集大成ともいえる合戦が、1575年、
武田勝頼軍と戦った「長篠の戦い」でした。
このとき、信長は一説によると3000挺の鉄砲を用意。
鉄砲と空堀、馬防柵を組み合わせた独自の戦法で、
戦国最強の呼び声も高かった武田の騎兵軍団を殲滅(せんめつ)しました。

当時の鉄砲(火縄銃)は発射するまでに時間がかかります。
筒をそうじし、火薬を詰め、弾丸を入れ、火縄に火をつけて、
引き金を引かなければなりません。
連続して射撃することは不可能でした。

そこで、信長は射撃手15人を1グループとして、
5人ずつ3組に分け、5人で武田軍の武将ひとりをねらうことにしました。
まず第1組の5人が一斉に発射し、射撃を終えたら、後ろに下がります。
続いて第2組の5人が前に出て、一斉に射撃。
その間に第3組と第1組は射撃準備に専念しているわけです。

このように3組が入れ代わりながら打つことで、
連続して射撃することが可能になりました。

さしもの武田騎馬軍団も空堀や馬防柵で足止めされているうちに
鉄砲に狙い撃ちにされ、次々に倒れていきます。
武田方にしてみれば、まるで機関銃で攻撃されているような
気持ちではなかったでしょうか。

合戦は武田方の完敗で終わります。
武田軍15000人のうち約1万人が戦死、
名だたる武将も軒並み討死にしました。
大将の勝頼も命からがら敗走します。

・合理的思考がカンと経験に勝った

このあとも武田は8年間存続しますが、
実質的には長篠の敗戦で命運は尽きていたといわれています。

上之郷敏昭氏は前掲書で次のように指摘しています。
「一見、ダイナミックな勝利や成功に見えることも、
緻密な計画と周到な準備があったように、
一見「運が良かった」と思えることも、
詳細に客観的、科学的に分析していくと、
かなりの部分まで、合理性の積み重ねであることが、結構多いのである。
信長における「桶狭間」も、
源義経における「鵯(ひよどり)越え」も、
相当部分まで、「劣勢、劣悪な状況」を前提とした
緻密な分析と準備の上に成立している」

「長篠の戦」は信長の合理的な思考が
武田勝頼のカンと経験、情念に頼った思考に勝った戦いだったともいえます。

信玄という偉大なる父を持っただけに、勝頼には功を焦る気持ちもあったのでしょう。
「われわれがここで留意すべきは、
勝頼が有能な武将であったとか、無能であったとか、
「長篠の戦」はやった方がよかったのか、悪かったのか語るのではなく、
当然踏んでおかなくてはならない手順、
さらにはその手順を実行するための思考である。
敗戦はそこから自ずと導き出される結果に過ぎないのである」

合戦の準備の段階で、
なすべきことをなさなこっとが手ひどい敗戦を招き、
国が崩壊する原因となりました。

最適の手順の選択と、その実行が合理的経営そのものです。最終的に勝敗・成否を分けるのは「運・不運」「どちらにツキがあるか」ですが、それさえも人事を尽くした人間のほうに味方するのではないでしょうか。


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2015年8月11日火曜日

「山田経営維新塾メールマガジン」Vol64,2015,7,27号

屈指のイノベーター、織田信長

イノベーションの重要さを腑に落とし込むために
歴史上の事例を見てみましょう。
「歴史に学ぶものは生き残り、歴史に学ばないものは滅び去る」
といわれています。

先人たちの苦闘の歴史を知ることは、
自分自身が体験したのと同じくらいの意味を持ちます。

特に戦国時代は負ければ、一族郎党が滅んでしまう時代だっただけに、
イノベーションの重要性、競合との戦い、リーダーシップ、組織論など
学ぶべきことは多い。
経営者にとっては「教訓」に満ち溢れた時代だといえます。

戦国武将で、もっともイノベーションに熱心だったのは、
何といっても織田信長でした。

単に合戦・戦闘のやり方を変えただけでなく、
「楽市・楽座」など政治・経済面でも多数の新機軸を打ち出しました。
戦国時代、いや日本の歴史上屈指のイノベーター(革新者)
といっても過言ではありません。

しかも、思考が、きわめて論理的。
目的に向かってベストと思われる方法を取る
「目的合理性」を持っていました。

信長の導入した画期的な仕組みのひとつに
「常備兵」があります。
それまでの戦国大名の兵隊は例外なく「半農・半兵」でした。

つまり、兵隊たちは、普段は農業に従事していて、
敵が自国に攻め込んで来たり、
自分が仕えている大名が他国へ侵攻したりする際、
武装して戦場へ就いたわけです。

春・秋の農繁期は忙しいので、あまり戦いたくない。
敵も味方も事情は同じですから、他国への遠征は、
もっぱら夏・冬に行われていました。

戦いが長引いて、農繁期になると、
遠征軍は故国に引き上げざるを得ません。
不利な籠城戦であっても、農繁期になるまで我慢すれば、
なんとか生き延びることができました。

兵農を分離し、常備軍を組織した

ところが、信長は発想の転換を図ります。
兵・農を分離させ、常備軍を組織しました。
農民には農作物を育てることに専念させ、
年貢・税で兵隊を雇うことにしたのです。

戦国時代は歴史上、類がないほど雇用が流動化した時代でした。
市中には戦いに敗れ、失職した武士があぶれていますから、
リクルートには困りません。
そうした浪人を傭兵として召し抱えました。

常備兵は季節に関係なく戦えます。
兵站(へいたん)さえ、きちんとしていれば、
長期の遠征も苦になりません。
農繁期を狙って攻め込めば、相手は嫌がります。

戦いの合間には厳しい訓練を施すことで、
集団行動になれさせ、
1人ひとりの技能を高めることも可能でした。

もっとも、問題がないわけではありません。
常備兵は、からっきし弱いのです。
ほかの大名の兵は農民ですから、モチベーションが高い。
戦いに敗れると、農地は奪われ、住むところがありません。
死に物狂いで戦いました。

しかも、地縁・血縁で幾重にも縛らていますから、
戦場から逃亡したり、卑怯なマネをしたりすることできません。
一族郎党の共同責任となるからです。
現代よりも、はるかに「恥」「名誉」に敏感な時代でしたから、
忠誠心は抜群でした。

ところが、常備兵には、そうした「しばり」がありません。
命を捨ててまで、ボスのために戦う必要もない。
形勢が不利となれば、合戦の途中に、さっさと逃げ出します。
クビになっても、他の大名に雇ってもらえばよかったからです。

ですから、信長は戦国大名としてデビューし、
尾張統一や美濃征伐に取り組んだ時代、信長軍は連戦連敗でした。
特に、美濃攻めには手こずりました。

ところが、常備兵を持っている強みを生かし、
信長軍は何度敗れても、ほどなく兵を挙げ、美濃に攻め入ります。
農繁期・農閑期を問いません。
徐々に美濃勢には疲れが見え始めました。

最後は新兵器の鉄砲が威力を発揮し、美濃を攻め落とします。
欠点はあったものの、常備兵を置く発想は画期的、
信長の合理的な思考が光りました。



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