2015年9月30日水曜日

「山田経営維新塾メールマガジン」Vol67,2015,10,1号


戦国武将に学ぶ勝つ経営 パート2

「洋上の要塞を作り上げた」

ここで信長の非凡さが発揮されました。

「機動力を誇る毛利水軍に対して、
こちらも機動力で対抗しようとしても、かなうはずがない。
安宅船は可視化に欠点も大きいが、
火攻めに対する防御を固めれば、十分に対抗できる」


九鬼水軍の頭(かしら)、九鬼嘉隆を呼ぶと、安宅船の改良を命じ、

1、毛利水軍の火器による攻撃を防ぐために楯板を鉄板に変更すること
2、楯板は甲板の上ではなく、弦の外側につけることの2点を具体的に指示しました。

鉄板船の建造は簡単なことではありません。
楯板を鉄板に変えると、それだけ重くなり喫水が下がるからです。

下手をすると、せっかく建造したのに浮かばない船になりかねません。
鉄が厚くなるほど喫水が下がりますから、
浮力を得ようとしたら、船を大きくせざるを得ません。

嘉隆は巨大な船を作ることで、この難題を乗り越えようとしました。
伊勢湾でひそかに6艇の安宅船を建造。
1578年1月、木津川沖の毛利軍の前に
驚異の新兵器・巨大鉄板船が姿を現しました。

1月6日、木津川沖で、信長軍と毛利軍の再度の決戦が行われました。
第2次木津川の戦いです。

600艇の大軍を擁した毛利水軍は、
ふたたび織田水軍を血祭りにあげようと、
意気揚々と近づいてきます。
ただし、対する織田水軍は2年前と同じではありませんでした。

信長水軍の中央に巨大な鉄船6艇が浮かび、
その周りを200艇の船が囲んでいたのです。
鉄船は周りを鉄の板で囲い、
縦50メートル、横20メートルの大きさ。
洋上の要塞と言っても過言ではありません。


「敗北のときこそ、勝利の因をつくれ」

それでも、先手を取ったのは毛利水軍でした。
600艇が、いっせいに信長水軍に躍りかかりました。
毛利水軍の機動力は抜群。
操船技術も織田水軍より、はるかにまさっています。

毛利水軍の攻撃の仕方は特徴があり、
5艇の船がクサビ形にになって、
敵の船団に突っ込んでいきます。
敵は、まさにクサビを打ち込まれたように、
船と船の間隔があき、その部分から崩れていきました。

この日の信長軍は、さしたる反撃もせずに逃げ惑うばかり。
毛利水軍の船は逃げる敵を追いかけ、気が付くと、
いつの間にか鉄板船の近くまできていました。

そのとき、鉄板船の大砲(大筒)がいっせいに火を吹きました。
大砲は前と左右に設置されていますから、
1艇に3門、合計18門の大砲が炸裂したのです。
毛利水軍の船は、しょせん木造船ですから、大砲にはかないません。

得意の火攻めも鉄板船相手では効果がない。
乗り込もうにも、足がかりもありませんした。
毛利水軍の船は次々と海のもくずとなって消えていきました。
戦いに擁した時間はわずか「4時間」。
信長の新兵器・鉄板船が無敵を誇った毛利水軍を、たたきのめしたのです。

敗北のときにこそ次の戦いの勝因を作ることができ、
勝利のときにこそ次の戦いの敗因が隠れています。

2回にわたる木津川の戦い。
最初の戦いで完敗した信長は毛利水軍打倒の秘策を考え、
第2次の戦いで実行に移しました。

作家の池宮彰一郎氏は次のように述べています。
「玄人は、先例を重んじ、先人の例に従って、戦を規定する。
戦はこうするものだ、歴史は繰り返す、と、
だが、歴史には同一局面は有り得ない。
人も物も次々刻々に進歩し、変化する。
時代は変わるのである。
戦も、公共事業も、金融も、商取引も。
「玄人」(くろうと)はそれを知らない。
いや認めようとしない。
変化が怖いのである。
確かに信長は、海戦では素人であった。
ただし、偉大な素人であった」
(「本能寺 下」毎日新聞)

変化を恐れない、「素人」信長。
大阪湾に浮かび上がった洋上の城・鉄板船は
合理的思考の真骨頂を示していました。

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

★「非常識社長の維新を起こす経営」★

アマゾンにてご予約可能 http://urx2.nu/hf4H
お近くの書店でもお買い求め頂けます。
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
一般社団法人「山田経営維新塾」
HP : http://www.yamadajuku.jp/
山田経営維新塾メールマガジンバックナンバー
http://yamadajuku.blogspot.jp/
アメーバブログ
http://ameblo.jp/yamadajuku/
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
社団法人「山田経営維新塾」
事務所住所
〒420-0034 静岡市葵区常盤町一丁目
8番地の6アイワビル7F
事務局:yamadajuku@live.jp
塾長:master@yamadajuku.jp
電 話    054-653-3607
F A X   054-653-3608 

2015年9月3日木曜日

「山田経営維新塾メールマガジン」Vol66,2015,9,4号

戦国武将に学ぶ勝つ経営

毛利水軍の火攻めに、あえなく完敗

前回の続きになりますが
もうひとつ、信長の合理的な思考を伺わせる戦いがあります。
こちらは木津川沖の大阪湾上で行われた海戦、
信長水軍と毛利水軍が激突した2つの戦いを比べてみると、
信長の非凡さが自然に浮かび上がります。

1576年、将軍・足利義昭の要請で毛利氏は信長との対決を決意します。
とりあえず、信長と対立している石山本願寺と同盟を結び、
海上から本願寺に兵糧を運び入れることにしました。
信長軍の兵糧攻めを無効にする作戦です。

石山本願寺は大阪湾に面しており、
後に、同じ場所に豊臣秀吉によって大阪城がつくられます。

本願寺と毛利氏が同盟を結んだことを、
諜報活動を通じて信長は即座に知ります。
大阪湾からの援助ルートが確立したら、
本願寺を落とすのが、一層難しくなります。

戦国時代最強とうたわれた水軍をもっていたのは中国の毛利氏。
精鋭・小早川水軍、勇敢・村上水軍などを傘下に入れたことで、
洋上では向かうところ敵なしの状態でした。

同年7月、大阪湾・木津川河口付近で
本願寺向けの兵糧を積んできた毛利の輸送船団に信長水軍が襲いかかりました。
毛利軍の護衛戦も即座に反撃します。
第1次木津川の戦いです。

この時の毛利水軍は輸送船300艇と護衛戦300艇。
輸送船には戦闘能力はないとされていますから、
実質的には300艇の戦力でした。
対する織田は安宅船5艇と、
その周りを300艇の船が囲んでいました。
「300艇」対「5艇+300艇」。
兵力の上では織田軍の方が優勢でした。

安宅船は軍船の中心で、幅は10メートル以上、
長さは50メートル以上あります。
漕ぎ手だけでも50人~200人が乗り込み、
スピードはでないものの、巨体の割には小回りが利き、
高い戦闘能力を持っています。

数十人から数百人の兵士も乗船することができました。
安宅船は船足が遅いので、防備に力をいれています。
船上に分厚い楯板をはりめぐらせ、
弓や鉄砲の攻撃から乗組員を守っていました。

ただし、分厚いとはいえ、しょせん木でできています。
毛利水軍は火攻めが得意。さんざんに焙烙
(ほうろく=手榴弾のようなもの)
火矢をうちかけられ、織田軍の安宅船は次々に炎上していきました。

火の回りは早く、結局は5艇とも焼け落ちてしまい、
数百人を超える兵士、乗組員が犠牲になりました。
毛利水軍の中心である瀬戸内水軍、
村上水軍は倭寇以来の伝統を持ち、
水上での戦闘能力は高かった。

火器で攻撃した後、直接、兵士が相手の船に乗り込みます。
不安定な船の上での白兵戦は離れている方が圧倒的に有利。
名だたる毛利水軍にかなうものはいません。


第1次木津川の戦いで、信長軍は、
これ以上ないという敗北を喫しました。 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

★「非常識社長の維新を起こす経営」★

アマゾンにてご予約可能 http://urx2.nu/hf4H
お近くの書店でもお買い求め頂けます。
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
一般社団法人「山田経営維新塾」
HP : http://www.yamadajuku.jp/
山田経営維新塾メールマガジンバックナンバー
http://yamadajuku.blogspot.jp/
アメーバブログ
http://ameblo.jp/yamadajuku/
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
社団法人「山田経営維新塾」
事務所住所
〒420-0034 静岡市葵区常盤町一丁目
8番地の6アイワビル7F
事務局:yamadajuku@live.jp
塾長:master@yamadajuku.jp
電 話    054-653-3607
F A X   054-653-3608